【名曲徹底解説】シューベルト / 即興曲集D.899(作品90)

1. 創作背景と歴史

フランツ・シューベルト(1797-1828)は、死の約1年前にあたる1827年の夏に「4つの即興曲集 D.899(作品90)」を作曲しました。この時期のシューベルトは、病気や金銭面での苦悩を抱えながらも極めて創造的で多作な時期を過ごしており、この即興曲集と同時期に「ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調」や「ピアノ三重奏曲第2番 変ホ長調」など、約30曲もの重要作品を生み出しました。

「即興曲(Impromptu)」というタイトルの由来については諸説あります。自筆譜には、出版を引き受けたトビアス・ハスリンガーによって曲名が記されていることから、出版社が当時の中産階級に親しみやすい曲名として提案した可能性があります。一方で、シューベルト自身が1822年にヤン・ヴァーツラフ・ヴォジーシェクによる「即興曲集」(作品7)に触れ、そこから影響を受けた可能性も否定できません。いずれにせよ、その後に作曲した即興曲集D.935(作品142)では、シューベルト自身が「即興曲(Impromptu)」と記していることから、この曲名に満足していたことがうかがえます。

シューベルト即興曲集D.899の自筆譜
「4つの即興曲」(作品90, D 899)の自筆譜

しかし、シューベルトが即興曲集に込めた芸術的意図と、出版社や受容者が期待していたものには大きな隔たりがありました。出版社は当時の一般的なピアノ曲集のように、小規模で比較的簡単に演奏できる小品集を期待していましたが、シューベルトが創作したのはソナタに比肩する大規模かつ芸術的に深い作品集でした。その結果、ハスリンガーは1827年12月に冒頭2曲のみを出版し、残りの2曲の出版を躊躇してしまいます。第3番と第4番がシューベルトの死後29年が経過した1857年にようやく出版されたという事実は、当時の音楽界におけるこの作品の理解の難しさを物語っています。

2. 作品の全体的特徴

D.899の即興曲集は、シューベルトの円熟した様式的特色が随所に表れた代表的なピアノ曲です。4曲はそれぞれ異なる個性を持ちながらも、シューベルト特有の以下のような特徴を共有しています:

  1. 豊かな旋律性 – シューベルトの歌曲作曲家としての才能が、ピアノ曲においても美しい旋律線として表れています。
  2. 独特の調性設計 – 三度調の関係や同主調への転調など、シューベルト特有の調性間の移行を多用しています。長調と短調のせめぎ合いは、この作品群の大きな特徴です。
  3. 形式と自由さの共存 – 基本的には伝統的な形式(ソナタ形式、三部形式など)に則りながらも、シューベルトはそれらを自由に解釈し、独自の表現を追求しています。
  4. 豊かな和声語法 – 突然の調性変化や遠隔調への大胆な転調など、当時としては斬新な和声進行を多用しています。
  5. ロマン的表現 – クラシカルな様式を基盤としながらも、感情表現の豊かさと深さにおいて、すでにロマン派音楽の特質を先取りしています。

ローベルト・シューマンは即興曲集D.935(作品142)を「ソナタ」として評論しましたが、この視点はD.899にも当てはまります。しかし、シューベルトの真の意図は「ソナタ」を意識しつつも、その枠組みに収まらない自由な表現を追求することにあったと考えられます。ソナタより「小品」に近いが、単なる小品の域を超えた芸術的深みを持つ作品—これがシューベルトの「即興曲」の本質と言えるでしょう。

3. 各曲の詳細解説

第1番 ハ短調 (D.899-1)

形式と構造: アレグロ・モルト・モデラート、ハ短調、4分の4拍子。自由な変奏曲形式を取り、ソナタの第1楽章に相当する構造を持っています。

音楽内容: オクターヴで幾重にも重なったト音の強打によって幕を開け、単旋律の「問い」と和声を伴った「答え」が4小節一組で繰り返されます。これらのフレーズは毎回異なる和声で色付けされ、一つの対象に様々な角度から光を当てるような効果を生み出します。

主調のハ短調から始まり、変イ長調の第2主題へと移行します。第2主題は調性と伴奏リズムは第1主題と異なりますが、旋律的には第1主題から派生しており、主題間の有機的なつながりを感じさせます。続いて変イ長調で第3主題が簡潔に提示されます。

展開部では、第1主題が主調で回帰し、切迫感を高める伴奏とともに変形されます。第2主題はト短調で、第3主題はト長調で再現され、ソナタ形式の枠組みを越えた自由な調設計となっています。

結尾部では長短調のせめぎ合いが顕著に表れ、ハ短調で始まった楽曲が最終的にはハ長調で締めくくられます。しかし、最後の4小節に至るまで長調と短調の揺らぎが続く点は、一義的な「暗から明へ」の構造ではなく、より複雑で深い感情表現を意図しています。

演奏上のポイント:

  • 冒頭のオクターヴの強打は、強すぎず適度な響きを持たせること
  • 「問い」と「答え」の対比を明確に表現すること
  • 調性の変化に敏感に反応し、和声の色彩変化を豊かに表現すること
  • 長調と短調のせめぎ合いを意識し、特に結尾部での微妙な揺らぎを表現すること

第2番 変ホ長調 (D.899-2)

形式と構造: アレグロ、変ホ長調、4分の3拍子。A-B-A-コーダという三部形式を取ります。

音楽内容: 変ホ長調のA部では、三連音による音階が縦横無尽に駆けめぐり、チェルニーの練習曲を思わせる無窮動的な性格を持ちます。A部の中にも三部形式が含まれ、中間部として変ホ短調のセクションが挟まれています。

B部はロ短調(異名同音的には変ハ短調)で、舞踏風の性格を持ち、A部との対比を形成しています。ただし伴奏の基本リズムはA部と共通しているため、全体としての統一感も保たれています。

コーダではB部が変形され、ハ短調から始まり変ホ短調で終わるという、長調で始まって同主短調へ至るという珍しい調構造を示しています。

演奏上のポイント:

  • 三連符の無窮動的パッセージの流れるような演奏
  • A部とB部の性格の対比を明確に表現すること
  • 同時に全体としてのリズミックな統一感を維持すること
  • コーダでの調性変化に伴う表情の変化を自然に表現すること

第3番 変ト長調 (D.899-3)

形式と構造: アンダンテ、変ト長調、2分の4拍子。三部形式で書かれています。

音楽内容: 本曲集の中で最も人気が高く、シューベルトのピアノ曲の代表作の一つです。メンデルスゾーンの無言歌を思わせる美しい旋律と、中声部の6連符アルペッジョによる装飾が特徴です。シューベルト特有のダクテュロス(長短短)のリズムから紡ぎ出される旋律が、静謐な美しさを湛えています。

中間部は平行調の変ホ短調に転じ、強音の出だしや左手の切迫する三連音によって主部と対照的な性格を見せます。しかし六連符による中声部の伴奏が一貫して用いられることで連続性も保たれています。中間部の末尾には、シューベルト特有の手法として、低音の左手によるトリルが置かれています。

注目すべきは、シューベルトのピアノ曲で変ト長調が用いられたのはこの曲だけという点です。当時としては珍しい調性の選択であり、初版では譜読みの難しさへの配慮から半音上のト長調に移調されていました。

演奏上のポイント:

  • 美しい旋律線を歌うように弾くこと
  • 中声部の6連符は、旋律の伴奏として適度な存在感を持たせること
  • 主部と中間部の対比を表現しつつ、全体としての流れを保つこと
  • 変ト長調特有の響きを生かした演奏を心がけること

第4番 変イ短調 (D.899-4)

形式と構造: アレグレット、変イ短調、4分の3拍子。主部-トリオ部-主部という三部形式を取ります。

音楽内容: 主部は変イ短調で始まり、右手の分散和音と第2拍を強調した左手のリズムによって特徴づけられます。動きのある4小節と、動きを抑える四分音符の2小節が交互に現れた後、不意に変イ長調へと転じます。この長短調の突然の転換は、シューベルトの好んだ手法の一つです。

変イ長調になると音楽の構造が変化し、低声部に初めて旋律的な主題が現れ、徐々に高揚していきます。トリオ部は、変イ音を嬰ト音として読み替え、嬰ハ短調となります。ここでは和音の連打が旋律を支えています。トリオ部も三部形式を取り、中間で同主長調に転じます。

主部が回帰すると、特にコーダはなく、変イ長調のまま2つの和音によるカデンツで力強く締めくくられます。

演奏上のポイント:

  • 第2拍を強調したリズムの特徴を生かすこと
  • 長調と短調の対比を明確に表現すること
  • 主部とトリオ部の性格の違いを表現すること
  • 終結部の堂々とした和音の響きを十分に表現すること

4. 他の作品との関連性

同時期の作品との関連

D.899の即興曲集は、シューベルトの晩年の創作活動の中で重要な位置を占めています。同時期に作曲された「ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調」(D.898)や「第2番 変ホ長調」(D.929)などの室内楽作品と共通する特徴として、旋律の豊かさ、調性の大胆な扱い、形式的な自由さなどが挙げられます。

続く即興曲集D.935(作品142)との関連

D.899に続いて作曲されたD.935(作品142)の4つの即興曲と合わせて、シューベルトは計8曲の即興曲を残しました。これら2つの曲集は、当初は8曲まとめて出版される予定だったという説もあります。実際にD.935の自筆譜には第5番~第8番という通し番号が付けられていたことから、シューベルト自身は8曲を一連の作品群として考えていた可能性があります。

シューマンはD.935の4曲を「ソナタ」として評論しましたが、D.899とD.935を合わせた8曲には、ソナタの各楽章に対応するような性格の曲が含まれており、全体として大きな芸術的統一性を持っているとも考えられます。

ピアノ・ソナタとの関連

D.899の第1曲の冒頭と移調する主題は、翌1828年に作曲された「ピアノソナタ第21番 変ロ長調」(D.960)の第4楽章に類似した構成を持つ旋律となっています。シューベルトは晩年、ピアノ作品において独自のソナタ解釈と表現を追求しており、即興曲集とソナタの間には密接な芸術的つながりがあります。

5. 演奏上の総合的なポイント

技術的側面

シューベルトの即興曲集D.899は、ピアノ・ソナタほどの技術的難度はありませんが、それでも演奏者に多様な技術を要求します:

  1. 音色の多様性 – 特に第3番のような叙情的な曲では、繊細な音色のコントロールが必要です。
  2. アルペッジョと分散和音の扱い – 第2番の三連符や第4番の分散和音など、流れるような演奏が求められます。
  3. 声部バランス – 第3番のような多声部の曲では、旋律と伴奏のバランスが重要です。
  4. ペダリング – 和声の変化を明確にしつつ、滑らかな音の連なりを実現するペダリングの工夫が必要です。

解釈的側面

  1. 叙情性と歌唱性 – シューベルトの音楽の本質は「歌」にあります。歌うように弾くこと、旋律線の美しさを大切にすることが基本となります。
  2. 調性感覚 – シューベルト特有の調性の移り変わりに敏感になり、それに応じた表情の変化を表現することが重要です。
  3. シューベルトの時代背景の理解 – ウィーンの市民音楽文化、「ビーダーマイヤー」と呼ばれる時代の家庭的温かさと、同時にシューベルトが抱えていた悲劇的な運命の両面を理解すること。
  4. 形式と内容のバランス – 形式的な枠組みを理解しつつ、その中での感情表現の豊かさを追求することが求められます。

解釈の多様性

シューベルトの即興曲集D.899は、演奏者によって様々な解釈がなされてきました。例えば:

  • アルフレート・ブレンデル – 知的で構造を明確にした解釈
  • エリザベート・レオンスカヤ – 情感豊かで歌心に溢れた解釈
  • 内田光子 – 繊細かつ透明感のある音色による詩的な解釈
  • アンドラーシュ・シフ – 古典的均衡と表現力のバランスを重視した解釈

これらの多様な解釈は、シューベルトの音楽の豊かさと奥深さを証明しています。

6. 歴史的意義と評価

シューベルトの即興曲集D.899は、19世紀ピアノ音楽の発展において重要な位置を占めています。ベートーヴェンの死後、ピアノ音楽は「小品」と「ヴィルトゥオーゾ作品」という二つの方向に分かれていきましたが、シューベルトの即興曲は「小品」でありながら深い芸術的内容を持ち、後のシューマンやブラームスの性格小品の先駆けとなりました。

また、シューベルトの即興曲がヨハネス・ブラームスに強い影響を与えたことは特筆すべきで、ブラームスは第2番を左手用の練習曲として編曲しています。

シューベルトが即興曲集で示した新しいピアノ音楽の方向性は、19世紀ロマン派音楽の発展に大きく貢献し、現代に至るまでピアノ演奏のレパートリーとして重要な位置を占め続けています。

7. まとめ

シューベルトの即興曲集D.899(作品90)は、作曲者の晩年における創造的頂点の一つであり、彼の円熟した芸術的表現が凝縮された作品です。伝統的な形式に基づきながらも、シューベルト特有の旋律の美しさ、大胆な調性設計、深い感情表現によって、単なる「小品」の域を超えた芸術作品となっています。

各曲はそれぞれ独自の個性を持ちながらも、シューベルトの音楽語法によって統一され、全体として有機的なまとまりを感じさせます。特に長調と短調のせめぎ合い、遠隔調への大胆な転調など、シューベルト特有の和声語法が随所に見られます。

ピアノ奏者にとって、この即興曲集は技術的にも解釈的にも多くの課題を提示する一方で、その音楽的豊かさと深みによって、演奏する喜びと発見を与え続ける作品です。シューベルトの音楽の本質である「歌」の精神を理解し、豊かな音色と表現力で演奏することで、200年近く経った今日においても、この作品は聴く者の心に直接語りかけてくる力を持っています。

シューベルトの肖像画
シューベルトの肖像画(1827年)- 即興曲集D.899を作曲した時期


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