1. はじめに:ベートーヴェンの「大ソナタ」作品7の全貌
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのピアノソナタ第4番 変ホ長調 作品7は、彼の初期ピアノソナタの中でも特に重要な位置を占める作品であり、しばしば最初の「大ソナタ(グランド・ソナタ)」と称されます 1。その演奏時間は約28分から31分半にも及び、ベートーヴェンのピアノソナタの中では第29番「ハンマークラヴィーア」に次ぐ長さを誇ります 4。この規模の大きさは、当時25歳から26歳であったベートーヴェンが、すでにピアノソナタというジャンルの限界を押し広げようとしていた野心的な芸術家であったことを物語っています。作品2や作品10のように3曲まとめて出版されるのが通例であった当時において、この作品7が単独で出版されたという事実は、その重要性を一層際立たせています 1。
このソナタは、そのエネルギッシュな性格、高度な技巧的要求、そして後の傑作群を予感させる表現の深さにおいて際立っています 6。華麗な技巧と内省的な叙情性が同居しており、これは当時のベートーヴェンが、ウィーンのサロンを魅了する華麗なピアニストであったと同時に、より深い感情的・構造的複雑性を追求する真摯な作曲家でもあったという二重のアイデンティティを反映していると言えるでしょう。本稿では、このピアノソナタ第4番について、作曲当時のベートーヴェンの状況、楽曲の成立背景、各楽章の詳細な楽曲分析、そして演奏上のポイントに至るまで、多角的に掘り下げていきます。
2. 飛翔するヴィルトゥオーゾ:ウィーンにおけるベートーヴェン(1796年~1797年)
1792年、ベートーヴェンは故郷ボンを離れ、新たな音楽の中心地ウィーンへと移住しました 7。ウィーンにおいて、彼はピアニストとして急速に名声を高め、特にその即興演奏の才能と力強い演奏スタイルは貴族社会を魅了しました 7。1795年にはブルク劇場で公式デビューを果たし、作曲家としてもピアニストとしても注目を集める存在となります 7。
作曲家としては、ハイドンに師事しましたが(その指導には必ずしも満足していなかったとされます)、アルブレヒツベルガーやサリエリからも教えを受けました 7。この時期、1796年には師であるハイドンに献呈されたピアノソナタ作品2(第1番~第3番)が出版され、チェロソナタ作品5なども作曲されるなど、精力的な創作活動を展開していました 7。ピアノソナタ第4番 作品7が作曲されたのは、まさにこの1796年から1797年にかけての時期です 4。
1796年には、プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンへの初めての本格的な演奏旅行も行い、各地の優れた音楽家たちと交流を深め、見聞を広めました 7。このソナタは、この演奏旅行中のブラチスラヴァ(プレスブルク)滞在時に完成された、あるいは少なくとも一部が書かれたとされています 2。このような旅は、彼の音楽的視野を広げ、作品の雄大さや技巧的な華やかさに影響を与えた可能性が考えられます。新しい聴衆を前に自作を披露する機会は、彼の作曲様式の発展にとって重要な試金石となったことでしょう。
この輝かしいキャリアの初期に、後の彼の人生を大きく左右することになる聴覚障害の影が忍び寄り始めていた可能性も指摘されています。多くの資料では、明確な聴覚の悪化は20代後半、特に28歳頃(1798年頃)からとされていますが 4、1796年から1797年当時はまだ表面化していなかったかもしれません。しかし、徐々に進行する難聴であり、1814年には完全に聴力を失ったことを考えると 11、この自信と野心に満ちた青年期にも、その初期の兆候や不安が内在していた可能性は否定できません。後に見られる貴族との対等な関係の要求や著作権の自己管理といった彼の職業的自立への強い意志 12 は、ウィーンでのキャリア初期における競争の激しい環境や、ハイドンの指導に対する不満 7 などに見られる独立心と、この作品7のような大規模な楽曲を単独で出版するという野心的な姿勢からも伺え、彼の芸術家としての確固たるアイデンティティ形成の萌芽を示していると言えるでしょう。
3. 傑作の誕生秘話:作品7をめぐる物語
ピアノソナタ第4番 作品7は、1796年に作曲され 1、その楽章の一部は1796年末にブラチスラヴァで、残りは1797年初頭にウィーンに戻ってから書かれた可能性が指摘されています 9。そして1797年10月、ウィーンのアルタリア社から出版されました 1。
このソナタは、ベートーヴェンのピアノの弟子であったバルバラ(バベッテ)・フォン・ケグレヴィチ伯爵令嬢に献呈されました 1。彼女はベートーヴェンがウィーンで教えていた当時16歳の若さで、非常に優れたピアノの腕前を持っていたと伝えられています 9。ベートーヴェンは彼女の近所に住んでおり、寝間着のままレッスンに通ったという逸話も残っています 15。ピアノ協奏曲第1番など、他の作品も彼女に献呈されており 14、このソナタも彼女の卓越した技巧を念頭に置いて、あるいは彼女の家族からの依頼で作曲された可能性が高いと考えられています 8。著名なピアニストであった彼女への献呈は、単なる社交辞令ではなく、作品の技巧的・表現的な射程を定める上で実践的な触媒となったことでしょう。ベートーヴェンは彼女の能力に合わせて、あるいはそれをさらに引き出すために、このソナタの難易度や華麗さを調整したのかもしれません。
このソナタにはいくつかの愛称が関連付けられています。まず、初版には「大ソナタ(Grande Sonate)」と記されていました 1。これは、作品2や作品10のように3曲セットではなく、作品7として単独で出版されたこと、そしてその演奏時間の長さからも裏付けられるように、ベートーヴェン自身、あるいは少なくとも彼の承認のもとで付けられた、作品の規模と重要性を示す正式な呼称であったと考えられます 1。
もう一つの有名な愛称は「恋する乙女(Die Verliebte)」あるいは「愛する人」です。この愛称の由来については諸説あります。ベートーヴェン自身が日記や手紙でこのソナタを「Die Verliebte(愛する人)」と呼んでいたとし、作品への個人的な愛着を示唆する資料もあれば 6、ピアニストのアンドラーシュ・シフも、緩徐楽章の旋律を「Ich liebe dich(私はあなたを愛しています)」という言葉と結びつけ、献呈者へのベートーヴェンの感情の可能性に言及しています 17。一方で、出版当時に流布していた愛称で、特定の恋愛関係というよりは音楽の情熱的な性格を反映したものだとする見解もあります 4。より学術的な立場からは、この愛称はベートーヴェン自身によるものではなく、世間で呼ばれていた通称であり、公式な「大ソナタ」という名称こそが歴史的に重要であると主張されています 1。また、「恋する乙女」という別の俗称については、曲の雰囲気と一致しないという批判的な意見も見られます 18。献呈者バベッテとの間に恋愛関係があったという憶測もありますが 15、決定的な証拠はありません 15。これらの愛称を巡る議論は、このソナタが持つ形式的な野心と、聴衆に与えた感情的なインパクトとの間の興味深い緊張関係を浮き彫りにします。「大ソナタ」がベートーヴェンの意識的な構造的・知的な達成を指し示すのに対し、「恋する乙女」はその音楽が持つ直接的な感情的影響力を物語っていると言えるでしょう。
作曲のインスピレーションとしては、ベートーヴェン自身の、大規模で表現力豊かなソナタを創造しようという野心そのものが大きかったと考えられます 15。カール・チェルニーが、本来「熱情」という愛称で呼ばれるべきはこのソナタではないかと述べたと伝えられていることからも、その音楽内容の充実ぶりが伺えます 15。自身のピアニストおよび作曲家としての力量を世に示し、また才能ある弟子バベッテに挑戦的かつやりがいのある作品を提供したいという思いも、作曲の動機となったことでしょう 8。
4. 壮大な建築:作品7の楽章別分析
ピアノソナタ第4番 作品7は、その壮大なスケール、ベートーヴェンのピアノにおける「オーケストラ的思考」の萌芽 8、そして力強い感情の幅広さにおいて、彼の初期様式の中でも際立った作品です。作品2のソナタ群と比較して、主題の統合性や構成の野心において明らかな進歩を示しており 4、古典主義に根差しながらも多くの革新的な要素を含んでいます。ベートーヴェンの初期作品(作品2から作品22まで)は、ハイドンから学んだ古典的ソナタの可能性を拡大していった時期と位置づけられ、後期の独自性の萌芽も多く見られます 21。このソナタの緩徐楽章などには、すでに深い精神性が表れていると言えるでしょう 22。
ベートーヴェン ピアノソナタ第4番 作品7 楽章構成概要
楽章 | 速度標語と性格 | 調性 | 拍子 | 形式 | 特徴・革新性 |
I | Allegro molto e con brio (非常に速く、活気をもって) | 変ホ長調 | 6/8 | ソナタ形式 | 広大な規模、力強いリズム駆動、オーケストラ的書法(ホルン風の音型)、広いダイナミクス、展開部での大胆な転調、対照的な2つの主要主題。 |
II | Largo, con gran espressione (幅広くゆるやかに、偉大な表情で) | ハ長調 | 3/4 | 三部形式 | 深遠な感情、重厚な和音、休符の劇的効果、中間部でのカンタービレと転調の妙、オーケストラの楽器を思わせる高音域の音色。 |
III | Allegro (速く) | 変ホ長調 | 3/4 | スケルツォ形式 | 快活で優雅な主部。中間部は同主短調(変ホ短調)の劇的で力強いパッセージ。 |
IV | Rondo. Poco Allegretto e grazioso (やや速く、優雅に) | 変ホ長調 | 2/4 | ロンドソナタ形式 | 優美なロンド主題、ハ短調の情熱的な中間エピソード、オーケストラ的書法、コーダでのユーモラスな転調(変ホ長調の属音→ホ長調→変ホ長調)。 |
第1楽章:Allegro molto e con brio
変ホ長調、8分の6拍子 2。ソナタ形式で書かれています。冒頭はエネルギッシュな和音による変ホ長調のアルペジオで開始され、「鼓動のような力強いビート」が特徴的です 6。アンドラーシュ・シフは、2つの主要主題があり、第1主題は「より繊細で流れるようであり、短い」、第2主題は「広大で重厚」であると指摘しています 8。楽章全体を通して、推進力のあるリズム、スフォルツァンドのアクセント、そしてフォルティッシモからピアニッシモまでの幅広いダイナミクスが際立っています 6。エネルギー表現のために「異様な跳躍」も用いられます 6。第2主題は一時的な落ち着きをもたらしますが、すぐに音楽は再び勢いを増し、フォルティッシモの和音連打、ユニゾン、駆け上がる半音階へと展開します 6。展開部は「騒然とした」そして「交響的な性格」を持ち 8、変ホ長調から遠隔調であるイ短調やニ短調へと大胆に転調した後、主調へと回帰します 6。ピアニストのシフは、冒頭の繰り返される変ホ音に「ホルンの響き」を聴き取っており 8、弦楽四重奏やピアノ三重奏を思わせる書法や、ヴァイオリンのボウイングを連想させるアーティキュレーションも指摘されています 23。技術的には、111小節目からの右手16分音符のパッセージ 23 や、51、53小節目の広い音程跳躍(左手で補助することも可能 23)などが難所とされます。
第2楽章:Largo, con gran espressione
ハ長調、4分の3拍子 2。ABAの三部形式で、長いコーダが続きます 6。この楽章は深い情感、荘厳さ、そして「気品」に満ちています 4。シフはこの楽章を「音楽史上最も偉大な緩徐楽章の一つ」と称賛しています 8。「分厚い和音」が特徴的で、音楽の流れを途切れさせず、意味のある空白を生み出すためには「休符」の扱いが極めて重要になります 6。中間部(B部分)では、ピツィカート風の伴奏に乗ってカンタービレの旋律が歌われ、変イ長調からヘ短調、そして変ニ長調へと劇的に転調します 6。シフは、この部分のピアノの高音域の音色に「クラリネット、ファゴット、あるいはピッコロのような」オーケストラ的な響きを聴き取っており、それが楽章の広大さに寄与していると述べています 8。当時の批評家の中には、この楽章の付点リズムを「奇異」と感じる者もいたようで 24、その独創的な表現が注目されます。この楽章は「偉大な表情で」演奏することが求められ 6、シフはその旋律を「Ich liebe dich」という言葉と結びつけています 17。
第3楽章:Allegro
変ホ長調、4分の3拍子 2。ベートーヴェン自身は「スケルツォ」とは明記していませんが、その性格からスケルツォ形式と見なされます 2。主部は快活で優美であり、後のベートーヴェンのスケルツォに見られるような激しさはありません 8。中間部(トリオ)は、変ホ短調(資料によっては「es-moll」6、「E-flat minor」2と表記)へと劇的に転調します。このトリオは暗く、嵐のようで、力強いパッセージであり、「不吉で、テクスチュアに満ちた」書法が特徴です 8。アルペジオ風の音型でありながら、実際には「迫力のある音響空間」を生み出します 6。主調の短調をトリオに用いるという選択は、鮮やかな対比を生み出しています。
第4楽章:Rondo. Poco Allegretto e grazioso
変ホ長調、4分の2拍子 2。A-B-A-C-A-B’-A-コーダというロンドソナタ形式で書かれています 6。主要なロンド主題は「可愛らしく」魅力的で、属七の和音の響きに乗って導入されます 6。対照的なエピソードとして、C部分はハ短調で書かれ、32分音符の連続する音型に乗って「激しい情感が噴出」します 6。シフはここでもオーケストラ的書法を指摘しており、「ホルンの呼びかけ、弦楽器の走句、木管楽器のさえずり」や「牧歌的で、きらめくような要素」に言及しています 8。コーダでは、ベートーヴェンらしいユーモラスで驚くべき和声的転換が見られます。変ホ長調の属音がフェルマータで伸ばされた後、半音上のホ長調へと突然転調し、その後何事もなかったかのように「ヌルッと元の調に戻ります」6。このソナタは、華々しいフィナーレではなく、静かで丁寧なお辞儀のように静かに終わります 8。ドナルド・フランシス・トーヴィーは、このロンドをベートーヴェンの初期書法を締めくくる傑出した楽曲群の一つと位置づけています 15。
この作品全体に見られる「オーケストラ的思考」8は、単なる音響効果に留まらず、ソナタ形式内におけるドラマツルギーや展開の壮大さといった、交響曲的な発想をピアノで実現しようとする試みと言えます。ベートーヴェンは、ピアノという楽器が持つ色彩のパレットの広さや、より大きな規模の議論を表現できる可能性を実験しており、これは彼の後の英雄的な様式へと繋がる重要なステップです。また、第1楽章展開部における遠隔調への探求(変ホ長調からイ短調、ニ短調へ)6、ラルゴの中間部における劇的な転調 6、第3楽章トリオにおける変ホ短調の選択 6、そしてロンドのコーダに見られるホ長調への機知に富んだ転調 6といった和声的革新性は、古典的な和声法の慣習を表現的・劇的な目的のために拡張し、覆そうとするベートーヴェンの初期からの意欲を示しています。これらの和声的冒険は、単なる技術的実験ではなく、作品の感情的な物語性や構造的独創性と深く結びついており、彼の特徴となる大胆さの初期の現れです。作品2と比較して、主題の統一性の向上や各部分の役割の明確化といった構造的改善が指摘されていること 20は、作品7がベートーヴェンの大規模形式の習熟における重要な一歩であることを示唆しています。彼はより大きなカンヴァスをただ埋めるだけでなく、それをより効果的に構成する術を身につけつつあったのです。
5. 作品7を鍵盤で奏でる:演奏解釈と洞察
ピアノソナタ第4番 作品7は、その「大ソナタ」という名にふさわしく、また卓越したピアニストに献呈されたことからもわかるように、演奏者には高度な技術と深い音楽的理解が求められます 6。
技術的な側面では、まず広範囲な跳躍や音程 6(例:第1楽章51、53小節)、急速なパッセージワーク(第1楽章111小節からの16分音符 23、第4楽章C部分の32分音符 6)、そして特に緩徐楽章における重厚な和音の扱い 6などが挙げられます。長大な作品全体を通してエネルギーと集中力を維持することも重要です。これらの技術的課題は、単なる技巧の誇示ではなく、エネルギー、壮大さ、劇的緊張感といった音楽の表現目標と本質的に結びついています。これらの困難を克服することが、作品の性格を解き放つ鍵となるのです。
解釈においては、まずテンポ設定が重要です。各楽章を通して一貫したテンポを保ち、特に困難な箇所でテンポを落とさないようにすることが望ましいとされています 23。アンドラーシュ・シフは、espressivo の指示はしばしばやや遅めのテンポを暗示すると述べています 17。ロンドの「Poco Allegretto」は、過度な速さではなく優雅さが求められます。ダイナミクスについては、ピアニッシモからフォルティッシモに至るベートーヴェン特有の幅広い音量変化と、突然のスフォルツァンド 6 を的確に表現することが、音楽のドラマ性を伝える上で不可欠です。アーティキュレーションに関しては、急速なパッセージにおける明瞭性と、一部の旋律線で示唆される「ヴァイオリンのボーイング」のような表現 23 を実現することが求められます。シフは、ベートーヴェンの記譜を忠実に守ることの重要性を強調しています 17。ペダリングは、特に叙情的な緩徐楽章や作品全体が持つ「優雅な雰囲気」14 を損なうことなく響きを豊かにするために、慎重な使用が求められます。
作品全体の性格としては、「希望にあふれ、期待感にあふれ、幸福感があり、力強さがある」23 といった雰囲気を伝えることが目指されます。その壮大さと、親密さや機知に富んだ瞬間とのバランスを取ることも重要です。前述の「オーケストラ的思考」8 を考慮し、ピアニストはタッチや声部間のバランスを工夫し、豊かな音色のパレットを追求すべきです。これは、ピアニストが単に「ピアノ的」なアプローチを超え、多様な楽器の音色やテクスチュアを形作る指揮者のように振る舞うことを意味します。
著名な演奏家の視点も参考になります。アンドラーシュ・シフは、楽譜への忠実さを重んじつつ 17、ベートーヴェンのオーケストラ的発想を強調し 8、緩徐楽章の主題を「Ich liebe dich」という言葉と結びつけるなど、個人的な情感の込め方にも言及しています 17。彼はまた、ピアノ演奏における正しい姿勢、呼吸、アーティキュレーションの重要性を説き、「音楽とは精神そのものであり、精神的な行為である」と述べています 25。パウル・バドゥラ=スコダの著書『ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 演奏法と解釈』には作品7に関する記述が含まれており、ピアニスト兼研究者としての実践的な視点を提供しています 26。アルフレート・ブレンデルの知的な深みや、マウリツィオ・ポリーニ(スケルツォでの彼の演奏は「爽快」と評されています 8)の明晰さと力強さといった、他の巨匠たちのベートーヴェン解釈も、この作品へのアプローチを考える上で示唆に富んでいます。
楽譜の版については、ヘンレ版やウィーン原典版のような、作曲者の意図に忠実であることを目指した原典版(Urtext)の利用が推奨されます 27。これらの版は、ベートーヴェンの記譜を正確に再現しようと努めています 28。
「恋する乙女」といった愛称を巡る議論や、シフが緩徐楽章に個人的な連想を抱くこと 17 は、ベートーヴェンの音楽が、楽譜への忠実さを追求する演奏家でさえも、主観的な関与や解釈の自由を許容する力を持っていることを示しています。その感情的な物語性は強力であり、演奏家自身の個人的な繋がりを可能にするのです。
6. 作品7の歴史的文脈:受容と遺産
ピアノソナタ第4番 作品7は、出版当時から注目を集めました。「恋する乙女」あるいは「愛する女」という愛称が当時流布していたことは、その情熱的な性格が聴衆に強い印象を与え、ある程度の人気を博したことを示唆しています 1。しかしながら、当時の批評の中には、「緩慢さや誇張が見られ、未だ発展途上であるとする向きもある」4 といった指摘もありました。これは、必ずしも全ての聴衆や批評家から一様に高い評価を得ていたわけではなく、ベートーヴェンがまだ自身の様式を確立しつつある途上にあると見なされていたことを示しています。このような賛否両論の受容は、革新的な作曲家にとっては典型的なものであり、一部の人々が欠点や過剰さと捉えた要素こそが、まさにベートーヴェンの独創的な声と、既存の規範からの逸脱を示していたのかもしれません。
ベートーヴェンの初期ソナタ群の中で、作品7は規模、野心、そして構造的統合性の点で作品2のソナタ群から著しい進歩を示しています 4。ある分析では、初期のソナタの中で「規模・完成度ともに最高のもの」と評価されています 20。この作品は、ベートーヴェンが初期ソナタでしばしば用いた4楽章構成を確立し 4、彼のピアノ書法における「交響的」アプローチの発展を示しています 8。ベートーヴェンの初期作品(作品2から作品22まで)は、ハイドンから学んだ古典的ソナタの可能性を拡大した時期であり、後期の独自性の萌芽も多く見られます 21。作品7の緩徐楽章のような部分には、すでに深い精神性が現れていると言えるでしょう 22。
音楽学的な観点から見ると、ベートーヴェンという作曲家は同時代および後世に強い印象を与え、作曲家像や演奏家像にも影響を及ぼしました。作品7は、この受容史を研究する上で重要な作品とされています 29。このソナタは、古典的な基礎の上に立ちながらも、より大きな感情的深みと構造的自由へと向かう、ロマン主義的傾向の初期の兆候を示す過渡的な作品と見なすことができます(ただし、この指摘は後期の過渡期作品に主眼を置いたものであり、作品7の拡張された性格を考慮に入れる必要があります)30。
作品7が単独の「大ソナタ」として出版されたという事実は 1、単なる出版上の決定ではなく、ピアノソナタが交響曲や弦楽四重奏曲に匹敵する芸術的重みを持つ、深遠かつ大規模な表現が可能な主要な自律的ジャンルであるという、ベートーヴェンの初期の主張であったと解釈できます。この主張は、ピアノソナタが作曲家の最も個人的かつ野心的な表現手段へと進化する上で、ベートーヴェン自身がそのキャリアを通じて擁護していくことになる潮流の先駆けとなりました。
このソナタがベートーヴェンの最初の主要な演奏旅行中に作曲され 7、才能ある貴族の弟子に献呈されたという事実は 9、この作品が公的な披露と私的なパトロネージという、当時の作曲家の成功にとって不可欠な二つの道を交差する地点に位置づけられることを意味します。これは、ベートーヴェンが変化しつつあった社会音楽的状況を巧みに渡り歩いていたことを示しています。
作品7が今日なお魅力的で重要な作品であり続ける理由は、その内在的な音楽的質の高さ(記憶に残る主題、劇的な展開、感情の幅広さ)、主要な作曲家による大規模な初期の表明としての歴史的重要性、そしてピアニストや音楽学者による研究対象としての価値、そしてコンサートレパートリーにおける確固たる地位にあります。
7. 結論:初期「大ソナタ」の不滅の響き
ベートーヴェンのピアノソナタ第4番 変ホ長調 作品7は、その野心的な規模、各楽章の力強さと叙情性、高度な技巧的要求、そして若きベートーヴェン特有の音楽的個性の初期の表明として、際立った存在です。この作品は、ベートーヴェンのピアノソナタの発展における画期的な一歩であり、彼の革新的な精神を20代半ばにしてすでに示しています。それは、後に続くさらに革命的なソナタ群への道筋をつけた作品と言えるでしょう。
このソナタは、ピアノソナタを深遠な個人的表現と大規模な劇的物語のための媒体へと変容させるという、ベートーヴェンの初期からの揺るぎないコミットメントを証明する重要な作品です。これにより、19世紀におけるピアノソナタの地位向上に効果的に貢献しました。作品7が持つ若々しい活力と、驚くほど成熟した深遠な瞬間との融合は、音楽に革命をもたらす寸前の天才の精神を垣間見せてくれるという点で、聴衆を魅了し続けています。それは、彼の初期の努力の集大成であると同時に、その後に続く偉大な達成を力強く予感させる作品なのです。
引用文献
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- ピアノ・ソナタ 第4番 第1楽章 Op.7/Sonate für Klavier Nr.4 1.Satz Allegro molto e con brio – ベートーヴェン – ピティナ・ピアノ曲事典, 5月 20, 2025にアクセス、 https://enc.piano.or.jp/musics/22954
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- 「静寂から音楽が生まれる」/アンドラーシュ・シフ | 唯我独尊的クラシックCD聴聞記(仮), 5月 20, 2025にアクセス、 https://ameblo.jp/symmetria59-95/entry-12707356790.html
- ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 演奏法と解釈 – 音楽之友社, 5月 20, 2025にアクセス、 https://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/detail.php?id=131210
- 楽譜の比較 ~ Beethoven ベートーベン – 楽譜の風景, 5月 20, 2025にアクセス、 http://iberia.music.coocan.jp/column_gakufuhikaku_beethoven.htm
- 「ピアノ演奏へのヒント」――楽譜から作曲家の真意を読みとるには – 音楽研究所, 5月 20, 2025にアクセス、 http://www.ri.kunitachi.ac.jp/lvb/rep/imai01.pdf
- 第2回目(2021/04/19) 音楽史の中で見るベートーフェンと「演奏解釈」 – 東京大学教養学部 ドイツ語部会, 5月 20, 2025にアクセス、 https://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~Gottschewski/geidai/2021/20210419/20210419.pdf
- 深井尚子 論文「ベートーヴェン後期作品群への過渡期的作品の考察」 – Biglobe, 5月 20, 2025にアクセス、 http://www7b.biglobe.ne.jp/~shokopiano/text05.html
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