—ファウストの影、鐘の響き、そして“怒りの日”が燃え上がる大ソナタ—
はじめに:なぜ今〈第1番〉なのか
ラフマニノフのピアノ・ソナタと聞けば、多くの人がまず第2番(Op.36)を思い浮かべます。ところが実は、規模・濃度・物語性の三拍子でより“巨大”なのが第1番(Op.28)。約35〜36分、3楽章から成るこの作品は、ロマン派の終章にふさわしい壮大さと、作曲家の個人的神話(鐘・旋律・“Dies irae/怒りの日”)が最も濃く交差する一作です。演奏機会は少なめですが、知れば知るほど深みにハマる“本命ソナタ”。この記事では、背景・構成・聴きどころ・名演・逸話までコピペ投稿OK仕様で一気通貫に解説します。
作品データ(まずは要点整理)
- 作曲年:1907年(1908年春に完成)
- 場所:ドレスデン時代(いわゆる“ドレスデン三部作”の一角)
- 初演:1908年10月、モスクワ(ピアノ:コンスタンチン・イグムノフ)
- 演奏時間:約35–36分
- 出版社:グートヘイル(1908年刊)
- 楽章:
- Allegro moderato(ニ短調)/2) Lento(ヘ長調)/3) Allegro molto(ニ短調)
作曲の背景:ドレスデンで温めた“もう一つの大計画”
1906年末、ラフマニノフは家族とともにドレスデンへ移住。モスクワの雑務から離れて作曲に専念するためでした。この頃に書かれたのが交響曲第2番、未完歌劇『モンナ・ヴァンナ』、そしてこのピアノ・ソナタ第1番。
初期構想としてゲーテ『ファウスト』に基づく“プログラム・ソナタ”(第1楽章=ファウスト/第2楽章=グレートヒェン/第3楽章=メフィストフェレス)というアイデアがあったことが、伝聞・広告・関係者の証言から知られています。作曲者は後年この標題性を強調しませんが、初期の演奏会告知に『ファウスト』の語が見えること、初演者イグムノフに楽章と登場人物の対応を語ったとされることなどから、作品の深層に“ファウスト”の影が残るのはほぼ確実です。
草稿段階では45分級の長大作で、同時代の同僚からの助言も受け約10分の大規模カットを実施。第2番のような改訂版は残らず、**第1番は実質“唯一の姿”**で今日に伝わっています。
三つのキーワードで聴く〈第1番〉
- 鐘の響き(Russian bells)
和音の重ね方・反復低音・オクターヴの揺らぎに“鐘”のイメージ。ラフマニノフ語法の核心が、独奏ソナタの枠で執拗に鳴り続けます。 - 歌(終わりなき旋律線)
アリアのように呼吸する旋律を、厚い伴奏テクスチュアの上でどう“浮かせる”か。演奏の肝。 - “Dies irae(怒りの日)”
作曲家が愛用したグレゴリオ聖歌の断片。終楽章で特に顕在化し、地鳴りのようなクライマックスを生みます。
楽曲の構成と聴きどころ(楽章別)
I. Allegro moderato(ニ短調、静かにD dur終止)
冒頭は問いかけるような五度動機から始まり、決然たる終止に応答、荘重な和声進行へと展開。主題の数は多いのに、いずれも統一的な動機核に結びつき、巨大な弧を描いて前進します。中間部〜再現部で蓄えたエネルギーを、意外にも静謐なD durの終止で閉じる設計が秀逸。
(※ファウスト的読み:ファウストの内的葛藤と探求。自我の輝きが一瞬“長調の微光”として覗く結末。)
聴きポイント
- 壮麗な和音連打の中でも旋律線を歌わせる配分(右手の上声と内声のバランス)
- ペダルの二段階運用(和声変化の先読みで濁りを抑制)
- コーダのD dur鎮魂を“過剰に鳴らしすぎない”勇気
II. Lento(ヘ長調)
“歌のない歌”。高音域に浮かぶ旋律が、鐘を思わせる和声のうねりの上でたゆたいます。中盤には小さなカデンツァ風の高揚と、息の長いクライマックス。うっかり情熱を盛りすぎると第3楽章へのアーチが崩れるので、温度とテンポの天秤が鍵。
(※グレートヒェン的読み:純真の歌と祈り。鐘=教会的イメージが象徴性を増す。)
聴きポイント
- 長大フレーズの呼吸設計(2〜4小節で切らない)
- 中・低音の伴奏パターンを単なる“埋め”でなく物語の地鳴りとして扱う
- クライマックス後の収束の透明度(ペダル解像度)
III. Allegro molto(ニ短調)
トッカータ風の悪魔の疾走。ここで**“Dies irae”が明確な形で姿を現し、全曲最大の圧力へ。第1楽章の動機が回帰し、循環構造を示しながら、最終的にはニ短調の闇へ沈む決着。第2番が“苦難から勝利”を描くのに対し、第1番は“闘争ののち、なお暗い”**という読後感が独自の魅力です。
(※メフィストフェレス的読み:嘲弄・狂騒・奈落。ファウストの影が疾走に絡みつく。)
聴きポイント
- 体力管理とテンポ維持(前半で飛ばしすぎると終盤で破綻)
- 急速分散和音の語法の切り替え(“打つ”と“歌う”の使い分け)
- “Dies irae”提示部のレイヤー分離(主題・反主題・鐘打撃の三層)
どう聴くか/どう弾くか:攻略のコツ
- 全体設計:各楽章単体のドラマが濃すぎるので、テンポ設定は“楽章間の対比”から逆算する。
- 響きの整理:分厚い和音を“全部鳴らす”のではなく、帯域と役割で引き算(低域の濁りを避ける)。
- 物語性の扱い:**“ファウスト読み”はガイドに過ぎません。**決めつけず、動機連関と和声推移から自然に立ち上がるドラマを優先。
- 練習順序:終楽章の左手オクターヴ持久力→第1楽章の和声連鎖とペダル合わせ→第2楽章のロング・ブレスの順で仕上げると効果的。
名演ガイド(厳選)
(年代=録音初出の目安/レーベル。表現の方向性でざっくり分類)
- 構築×透明
アレクシス・ワイセンベルク(1989/DG)
線の通った建築と硬質な光沢。全体像の見通しが抜群。 - 構築×剛胆
ジョン・オグドン(1968/RCA Red Seal)
巨大スケールを“力業”でなく設計図で押し切る快挙。アナログ名演の金字塔。 - 王道×円熟
ウラディーミル・アシュケナージ(2011/Decca)
ラフマニノフ全集の仕上げを飾る熟達の第1番。語り口の自然さが魅力。 - 劇的×精緻
ニコライ・ルガンスキー(2012/Naïve/Gramophone Editor’s Choice)
火と構築の両立。終楽章の“怒りの日”の彫りが深い。 - 詩的×硬派
ボリス・ベレゾフスキー(1994/Teldec)
迫真の推進力。第1楽章コーダの“静の炎”も出色。 - 透明×陰影
スティーヴン・オズボーン(2022/Hyperion)
テクスチュアを透かし、鐘の倍音まで描き出す清冽な名盤。 - リリカル×俊敏
ズラタ・チョチエワ(2012録音[後年再発あり]/Piano Classics)
歌心と俊敏さの両立。第2楽章の気品が光る。
こぼれ話・逸話
- “ファウスト”の痕跡:作曲者本人は後年プログラム性を曖昧にしましたが、初期の広告に『Faust』の表記、初演者イグムノフへの説明などから、“物語の影”は作品の設計に組み込まれていると見るのが自然。
- カットの問題:草稿は45分級→約35分へ凝縮。第2番のような“公式改訂版”は存在せず、第1番は基本的にオリジナル版のみ。
- 評価の変遷:初演時は**「長大で難解」の印象が先行。しかし近年は録音・演奏が着実に増え、“第2番の陰”から再評価**が進行中。
まとめ:第1番は“ラフマニノフ語”の原石原形
鐘の重力、終わりなき歌、そして“怒りの日”。ラフマニノフが生涯反芻した三要素が、もっとも純度高く、容赦なく押し寄せるのが〈第1番〉です。物語の影に惹かれるもよし、純音楽として構築と和声の妙を味わうもよし。知れば知るほどスルメのように旨味が増す、通好みの超大作。未聴の方は、まずは上記の“構築×透明”と“王道×円熟”から入るのがおすすめです。
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