【名曲徹底解説】バッハ作曲 / 「マタイ受難曲」

バッハの肖像画

はじめに

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (1685-1750) の「マタイ受難曲 BWV 244」は、西洋音楽史上最も壮大で精緻な宗教音楽作品の一つとして知られています。バッハの生涯の傑作と称される本作品は、イエス・キリストの受難と死を描写した音楽作品であり、その芸術性と宗教的表現力の深さから、音楽愛好家や専門家から長年にわたり称賛されてきました。

本記事では、マタイ受難曲の歴史的背景から構造、音楽的特徴、演奏の伝統に至るまで、この不朽の名作について詳細に解説します。バッハの芸術的天才と宗教的信念が融合したこの傑作を理解することは、クラシック音楽の理解を深める上で非常に重要な一歩となるでしょう。

1. マタイ受難曲の歴史的背景

創作の経緯

マタイ受難曲(Matthäus-Passion)は、バッハがライプツィヒの聖トーマス教会のカントールとして活動していた時期に作曲されました。初演は1727年4月11日の聖金曜日とされています。この作品は、新約聖書の「マタイによる福音書」の第26章と第27章に記されているキリストの受難と死を音楽で表現したものです。Wikipedia

聖トーマス教会

バッハは生涯で5つの受難曲を作曲したとされていますが、現存しているのは「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」の2作のみです。「マルコ受難曲」は断片的に残っているだけで、「ルカ受難曲」は真正性が疑問視されており、5つ目の受難曲については詳細が不明です。このうち、マタイ受難曲は最も壮大で深遠な作品として高く評価されています。

初演後の運命

マタイ受難曲が初演された後、バッハは1736年に大幅な改訂を行い、現在知られている形の総譜を完成させました。しかしながら、バッハの死後、この作品は他の多くのバロック音楽作品と同様に、一時的に忘れられた存在となりました。

1829年、当時20歳だったフェリックス・メンデルスゾーンが、この傑作をベルリンで復活演奏しました。メンデルスゾーンは、自らの偉大な先駆者の作品を一般の聴衆に紹介したいという強い意志を持ち、バッハの作品研究に携わっていたエドゥアルト・デフリエントの協力を得て、当時としては異例の大規模な演奏会を実現させました。この復活演奏は大きな成功を収め、バッハの音楽、特にマタイ受難曲への関心が再び高まるきっかけとなりました。

2. 作品の構造と概要

全体構成

マタイ受難曲は、2部構成で全68曲からなる大規模な作品です(改訂によって曲番号に若干の違いがありますが、一般的には68曲とされています)。演奏時間は約3時間に及び、実際の礼拝では第1部と第2部の間に説教が入るため、さらに長時間におよぶ音楽体験となっていました。OEKfan

全体の構成は以下のとおりです:

  • 第1部(29曲):最後の晩餐からゲッセマネの園での祈りと逮捕まで
  • 第2部(39曲):イエスの裁判、十字架刑、そして埋葬まで

編成の特徴

マタイ受難曲の最大の特徴のひとつは、その二重編成にあります。バッハは、2つの合唱団と2つのオーケストラを使用するという画期的な構成を採用しました。

演奏編成

  • 二重合唱(各4声部:ソプラノ、アルト、テノール、バス)
  • 二重オーケストラ(各フルートトラヴェルソ、オーボエ、弦楽器など)
  • ソリスト(福音史家、イエス、ピラト、ペテロなどの役柄を担当するソリスト)
  • 通奏低音(オルガン、チェンバロ、ヴィオローネなど)

この二重編成により、空間的な広がりと対話的な音楽表現が可能となり、聴衆を音楽の渦中に引き込む効果を生み出しています。

音楽的な構成要素

マタイ受難曲は以下の要素から構成されています:

  1. 福音書章句(レチタティーヴォ):福音史家(テノール)がマタイによる福音書の記述を歌い、物語を進行させます。イエスの言葉は常に弦楽器の伴奏付きレチタティーヴォで表現され、荘厳さと神聖さを強調しています。
  2. コラール(賛美歌):当時の会衆にもなじみのあったプロテスタントのコラール(賛美歌)が効果的に配置されており、聴衆が物語に参加する役割を果たしていました。
  3. アリア:登場人物や信者の感情や省察を表現するソロの歌唱部分です。アリアは物語の流れを一時停止させ、感情的な深みを加える役割を果たしています。
  4. 合唱:群衆や弟子たちの言葉を表現する部分や、作品の冒頭と終結部などに使用されています。特に劇的な場面では、合唱の力強い表現が物語に緊張感をもたらします。

このように、マタイ受難曲は様々な音楽形式を組み合わせることで、聖書の記述を単に伝えるだけでなく、深い感情と神学的な省察を表現する壮大な音楽ドラマとなっています。

3. 音楽的特徴と革新性

二重編成の意味

バッハがマタイ受難曲において二重編成(二重合唱と二重オーケストラ)を採用したことには、音楽的な意図だけでなく、神学的な意味合いも込められています。この構成は単に豪華な音響効果を生み出すためだけではなく、イエスと人間たち、神と教会、旧約と新約という二元的な対話を象徴しているとも解釈されています。ONTOMO

対話形式の音楽により、聴衆は福音書の内容をより立体的に体験することができます。例えば冒頭合唱「来たれ、娘たちよ、われと共に嘆け」では、「シオンの娘たち」(第1合唱)と「信じる者たち」(第2合唱)が呼びかけと応答を交わす対話形式となっており、劇的な効果を高めています。

音楽的象徴と修辞技法

バッハは音楽によって聖書のテキストを解釈し、象徴的に表現することに卓越した技術を持っていました。マタイ受難曲には、ルター派の伝統に根ざした音楽的象徴や修辞技法が巧みに用いられています。

例えば:

  • 十字架を表す音型:十字架に関連する言葉が出てくると、旋律が十字架の形(上下に動く動き)を描くように作曲されています。
  • 下降音型:「苦しみ」や「死」を表現する際に下降する旋律が使われることが多く、特にキリストの死を描く場面では顕著です。
  • 不協和音:裏切りや苦痛の場面では不協和音が使われ、聴く者に緊張感を与えます。
  • 数象徴:バロック音楽で重要な要素であった数象徴も随所に見られます。例えば、「3」はキリスト教の三位一体を象徴し、特定の音型やフレーズの繰り返しに使われています。

通奏低音と和声法

マタイ受難曲における通奏低音(バッソ・コンティヌオ)の扱いも特筆すべき点です。バッハは通奏低音を単なる伴奏としてではなく、物語の感情的な基盤として使用しています。和声の進行は、テキストの内容と密接に関連しており、特に劇的な場面やイエスの言葉に際しては、複雑で豊かな和声法が展開されます。

イエスの言葉は常に弦楽器の「光輪」(ハロー)と呼ばれる伴奏付きで表現されますが、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ場面では、その光輪が消え、通奏低音のみの素朴な伴奏となります。この劇的な変化は、イエスの神性と人間性の対比を象徴的に表現した瞬間として、作品の中でも特に感動的な箇所となっています。

4. テキストと音楽の関係

テキストの構成と出典

マタイ受難曲のテキストは、主に3つの要素から構成されています:

  1. 聖書のテキスト:マタイによる福音書の第26章と第27章からの引用で、福音史家、イエス、他の登場人物の言葉が含まれています。
  2. 自由詩:当時の詩人クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーチ(ピカンダー)によって書かれた詩で、アリアやレチタティーヴォの歌詞として使用されています。これらは聖書の出来事に対する感情的な反応や神学的な省察を表現しています。
  3. コラール(賛美歌)の歌詞:主にパウル・ゲルハルトやヨハン・ヘールマンなどのルター派の詩人たちによって書かれた既存の賛美歌の歌詞です。

これらのテキストの多層的な構造により、聖書の物語、個人の感情的な反応、そして共同体の信仰的応答という三つの次元が交差するようになっています。

「受難コラール」の役割

マタイ受難曲の中で特に重要な役割を果たしているのが、「受難コラール」(O Haupt voll Blut und Wunden「おお、御頭は血と涙にまみれ」)です。このコラールはパウル・ゲルハルトの詞に基づいており、作品中に5回登場します。川崎シンフォニーホール

このコラールは旋律は同じでも、それぞれの場面によって和声付けや編曲が異なり、物語の展開に応じて異なる感情を表現しています。特に第54曲のコラールは、イエスの磔刑の場面に置かれ、痛ましく心を打つ和声進行となっています。

言葉の音楽的表現

バッハの天才性は、テキストの意味や感情を音楽的に表現する能力にも表れています。マタイ受難曲では、言葉の意味が音楽的な動機やフレーズとして表現されることが多く、いわゆる「言葉絵画」(Word painting)の技法が随所に見られます。

例えば:

  • 「泣く」という言葉は、しばしば下降する音型や短い音価のフレーズで表現される
  • 「喜び」や「光」は上昇する明るい音型で表現される
  • 「震える」という言葉は、トレモロや反復音で表現される

さらに、イエスの言葉は常に弦楽器の伴奏付きで表現され、神聖さを強調しています。ただし、先述のように、十字架上での「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉だけは例外的に弦楽器の伴奏がなく、この対比は神のイエスからの離反という神学的な意味を音楽で表現したものと解釈されています。

5. 代表的な場面と聴きどころ

冒頭合唱「来たれ、娘たちよ、われと共に嘆け」

マタイ受難曲は壮大な冒頭合唱で始まります。「来たれ、娘たちよ、われと共に嘆け」(Kommt, ihr Töchter, helft mir klagen)という歌詞で始まるこの合唱は、二重合唱と二重オーケストラの全ての力を使った見事な対位法的書法で構成されています。

第1合唱団が「シオンの娘たち」を、第2合唱団が「信じる者たち」を表し、両者の対話の中に「おお見よ」と呼びかける子供合唱が加わる三層構造になっています。さらに、この大合唱の中に「おお、罪なき神の子」というコラールが織り込まれており、複雑で壮大な音楽的構造を形成しています。

アルト・アリア「憐れみたまえ、わが神よ」

マタイ受難曲の中で最も有名な楽曲の一つが、第47曲のアルト・アリア「憐れみたまえ、わが神よ」(Erbarme dich, mein Gott)です。このアリアは、イエスを三度否認した後に激しく泣くペテロの悔恨を描いた音楽で、バイオリンソロとアルト(あるいはカウンターテナー)の対話によって構成されています。

このアリアの深い悲しみと懺悔の感情、そして美しい旋律は、多くの聴衆の心を捉えてきました。バッハ研究家の中には、これを「人類が作り出した最も美しい音楽の一つ」と評する人もいます。

「彼を十字架につけろ」の合唱

劇的な場面の一つが、群衆がイエスを十字架につけるよう叫ぶ合唱(第45曲・第50曲)です。「彼を十字架につけろ」(Lass ihn kreuzigen)という短い言葉を急速なテンポで繰り返す合唱は、群衆の興奮と残酷さを生々しく表現しています。

この短い合唱は、不協和音や厳しい音型を用いて、人間の罪深さと暴力性を鋭く描き出しており、マタイ受難曲の中でも特に劇的な瞬間となっています。

終結合唱「われらイエスを墓に葬る」

マタイ受難曲は、イエスの埋葬を描く荘厳な終結合唱「われらイエスを墓に葬る」(Wir setzen uns mit Tränen nieder)で締めくくられます。この合唱も二重合唱で書かれ、深い悲しみと安らぎの両方を表現しています。

「安らかに眠れ」という歌詞が繰り返されるこの合唱は、悲劇的な物語の最後に静かな安息と希望を示唆しており、マタイ受難曲の精神的な旅を完結させています。

6. 名盤解説

マタイ受難曲の録音は数多く存在し、それぞれ異なる解釈や演奏スタイルを持っています。ここでは、特に重要な録音をいくつか紹介します。

カール・リヒター指揮(1958年、Archiv)

カール・リヒターによる1958年の録音は、マタイ受難曲の名盤として長く親しまれてきました。エルンスト・ヘフリガー(福音史家)、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(イエス)といった名歌手を起用し、伝統的な解釈でありながらも緊張感のある演奏を実現しています。februarycd.myrobalan.jp

リヒターのマタイ受難曲は、ロマンティックな傾向を持ちながらも、バロック音楽の本質を捉えた説得力のある演奏として評価されています。特にコラールの表現力と合唱の充実感は特筆すべき点です。

ニコラウス・アーノンクール指揮(1970年、Teldec)

オリジナル楽器とピリオド・パフォーマンスの先駆者であるニコラウス・アーノンクールによる録音は、従来のロマンティックな演奏とは一線を画す革新的なアプローチで注目を集めました。

アーノンクールの解釈は、より速いテンポと鋭いアーティキュレーション、少人数の合唱とオリジナル楽器の使用など、歴史的演奏法を意識したものとなっています。彼の録音は、その後のバロック音楽演奏に大きな影響を与えました。

フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮(1999年、Harmonia Mundi)

ベルギーの指揮者フィリップ・ヘレヴェッヘによる録音は、オリジナル楽器を使用しながらも表現力豊かな演奏として高く評価されています。特にコレギウム・ヴォカーレ・ヘントの透明感のある合唱と、イアン・ボストリッジ(福音史家)、アンドレアス・ショル(カウンターテナー)といったソリストの表現力が光る録音です。

ヘレヴェッヘの解釈は、歴史的な正確さと現代的な感性のバランスが取れた、幅広い聴衆に訴えかける力を持っています。

鈴木雅明指揮/バッハ・コレギウム・ジャパン(1999年、BIS)

日本のバッハ演奏を世界的なレベルに引き上げた鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパンによる録音は、精密な解釈と高い技術レベルで国際的に高い評価を受けています。

オリジナル楽器を使用した透明感のある音色と、精緻なアンサンブル、そして日本人演奏家によるバッハへの深い共感が感じられる演奏は、世界のバッハ演奏史に重要な一ページを加えました。

ジョン・エリオット・ガーディナー指揮(1989年、Archiv)

ピリオド楽器で知られるイングリッシュ・バロック・ソロイスツとモンテヴェルディ合唱団を率いるガーディナーの録音は、ドラマティックな解釈とエネルギッシュな演奏で特徴づけられています。

特に合唱の明確なディクションと表現力、そして物語としての一貫性ある解釈が高く評価されています。劇的な場面での迫力と内省的な場面での繊細さのバランスが絶妙です。

7. 現代における「マタイ受難曲」の意義

宗教的枠組みを超えた普遍性

マタイ受難曲は、もともとルター派の礼拝のために作曲されましたが、現代では宗教的な枠組みを超えて、人間の苦しみや感情、倫理的な問いに関する普遍的な音楽作品として受け止められています。

キリスト教の信仰を持たない聴衆であっても、愛と犠牲、裏切りと赦し、苦難と希望といった、この作品が扱うテーマの普遍性に深く共感することができます。バッハの音楽は、特定の宗教や文化を超えて、人間の心の琴線に触れる力を持っています。

演奏習慣の変化

マタイ受難曲の演奏スタイルは、時代とともに大きく変化してきました。19世紀から20世紀前半には、大規模な合唱団とオーケストラによる壮大な演奏が主流でした。しかし、20世紀後半からは、歴史的演奏法の研究が進み、バッハの時代に近い編成や楽器、演奏技法を用いる傾向が強まっています。

現代では、歴史的な正確さを追求するアプローチと、現代の感性や音響環境に適応したアプローチの両方が共存しており、様々な解釈でマタイ受難曲が演奏されています。この多様性は、作品の豊かさと普遍性を示すものと言えるでしょう。

文化的アイコンとしての位置づけ

マタイ受難曲は、単なる音楽作品を超えて、西洋文化の重要なアイコンとしての地位を確立しています。この作品は、文学、美術、哲学、さらには映画やポピュラー音楽など、様々な芸術分野に影響を与えてきました。

また、毎年イースター前の時期になると世界中で演奏されるこの作品は、音楽を通じて異なる文化や背景を持つ人々を結びつける役割も果たしています。バッハのマタイ受難曲は、300年近い時を経てもなお、その芸術的価値と感動的な力を失わない、真の不朽の名作と言えるでしょう。

8. 結び

ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「マタイ受難曲」は、音楽史上最も偉大な作品の一つとして、今日まで多くの人々の心を揺さぶり続けています。その複雑な構造と深い表現力、宗教的な意味と普遍的な人間性の探求は、300年近くを経た今日においても、私たちの心に直接語りかけてきます。

マタイ受難曲は、単なる宗教音楽ではなく、人間の存在そのものに関わる根源的な問いかけを含んだ芸術作品です。バッハの天才的な音楽語法によって表現されるイエス・キリストの受難と死の物語は、信仰の有無にかかわらず、私たちに深い感動と内省をもたらしてくれます。

この壮大な音楽旅行を通じて、バッハの天才とその信仰に基づく芸術の力に触れることは、現代を生きる私たちにとっても、かけがえのない経験となるでしょう。マタイ受難曲の演奏に身を委ねる時間は、日常を超えた特別な時間であり、音楽の持つ崇高な力を再確認する機会となるはずです。

推奨YouTubeリンク

  1. バッハの最高傑作!マタイ受難曲を分かりやすく解説! – 車田和寿による解説動画
  2. 対訳「マタイ受難曲」全曲 – カール・リヒター指揮、対訳字幕付き
  3. バッハ《マタイ受難曲》全曲 リヒター指揮(1958) – 名盤として知られるリヒターの1958年録音
  4. バッハ《マタイ受難曲》「神よ憐れみたまえ」アーフェ・ヘイニス – 名アリア「Erbarme dich, mein Gott」の名演
  5. St. Matthew Passion – Chorales – バッハ・コレギウム・ジャパンによるコラール集

参考文献

  1. アルベルト・バイルシュミット『J.S.バッハ研究』(音楽之友社)
  2. 皆川達夫『バッハ 生涯と作品』
  3. マタイ受難曲とは?聴きどころを解説 – 新生宣教団
  4. 曲目解説:バッハ,J.S/マタイ受難曲 – OEKfan
  5. バッハ《マタイ受難曲》 人間の業の深さに触れたとき – ONTOMO


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